[早稲田ラグビー4年間]中竹竜二監督に僕はここまで導かれてきた。

サンチョス 早稲田ラグビー

ピックアップ [早稲田ラグビー4年間]小林勝宗は中竹竜二監督にここまで導かれてきた。

僕には感謝してもしきれない方がいらっしゃいます。

それは中竹竜二元監督です。

中竹さんは僕が大学1年から3年まで監督をされていました。

小林勝宗 サンチョス ラグビー 早稲田

⇨ 入部直後、監督に直接セービングを指導して頂く。
 

中竹さんとの縁は大学在籍時はもちろんのこと、社会人となった現在になるまでに至っています。

僕を導いてくれた恩師であり、支持してくれた方であり、本当に感謝しきれない尊敬すべき大先輩です。

そんな中竹さんとの縁を、大学4年間、そして社会人になってお世話になったことを記します。

小林勝宗 サンチョス ラグビー 早稲田

⇨ 大学ラグビー生活最後、大学選手権決勝前日練習。

尊敬する先輩方の寄せ書きをもらったジャージで、親友大塚とヘッドに臨む。

名門早稲田ラグビー部に晴れて入門

大学に入るとプロップにポジションを変更した。

高校まではフランカーだった。

※ プロップはスクラムの最前列であり、ぶつかることが専門のポジション。

 大学トップレベルになると体重110kg以上が通常となる。

 PRと表記。

※ フランカーとはスクラムの第三列に位置し、グラウンドを走り回る運動量を求められるポジション。

 どんなプレーにも関係するようなオールラウンダー。

 FLと表記。

FLはラグビーにおいて花形ポジションである。

各チームのエース級の選手が名を連ねている。

また社会人チームならば、外国人選手がよく居るポジションである。
 

中竹さん率いるコーチ陣は大学トップレベルにおいて、僕の実力では敵わないと判断したのかはわからない。

しかし、FLで勝負するよりは、PRで勝負するほうに分があると判断し、ポジション変更するように提案してくださった。

小林勝宗 サンチョス ラグビー 早稲田

⇨ 1ヶ月間に及ぶ合宿中の試合。肌の黒さが異常。
 

入部当初わずか75kgしか無かった僕は、先輩やチームに、無理矢理な増量を強いられることになった。

1年の時、スクラムは弱かったものの、体重がない割に、スクラムの体勢をしっかりとれていた。

少なくともコーチ陣はそう評価していたため、体重をつけ身体が大きくなれば、上のチームでも十分に戦えるようになると判断した。

そしてその結果、グラウンドの真横にある、ラグビー部専門の寮に入るように命ぜられた。

小林勝宗 サンチョス ラグビー 早稲田

⇨ 体重の割に足腰の強さには定評があった。
 

寮には常時、1軍・2軍の選手が主に生活している。

1年の時に4軍だったが僕が寮に入るなんて場違いでしかなかったが、僕は2年になると同時に寮に入ることになった。

期待された育成枠ということだった。

入寮後、伸び悩む自分の状況に苦しむ日々。そして戦線離脱。

寮に入ったからといって劇的にプレーがうまくなるわけではない。

僕は2年になると3軍と4軍を行き来するくらいだった。

(チームは試合や練習の成果で、毎週上下する。)

寮の生活では周りは1軍、2軍の選手ばかりで、正直居心地が悪かった。

僕が居るのが申し訳ないように感じていたからだ。

小林勝宗 サンチョス ラグビー 早稲田

⇨ 1年の夏合宿時、5軍として苦しい練習中の一コマ
 

3年になり、それは起こった。

4月に新シーズンを迎える直前の3月のオフの時、

筋肉増大、体重増量を求められる選手のみが、S組という組織に選抜される。

その時、僕はS組に選抜され、オフを返上して肉体改造に取り組んでいた。
 

瞬発力を鍛えるため、オリンピック競技でも見られるクリーンを行っていた。

地面にあるバーベルを勢いよく肩の上まで上げる動作をするトレーニングだ。

ピークを終え、重さを減らして取り組んだクリーンの時にやってしまった。

”ギックリ腰”を発症させてしまったのだった。

小林勝宗 サンチョス ラグビー 早稲田

⇨ 1年時、宿敵関東学院戦での4軍の試合

ギックリ腰。それは悲惨のほか何ものでもなかった。

ギックリ腰をした時のことを詳細に記す。
 

僕はクリーンでバーベルを勢いよく持ち上げ、上体がまっすぐになった瞬間に腰をやってしまった。

力み過ぎた結果ちょっと後ろに反ってしまい、腰に必要以上に負担をかけてしまったようだった。

その場でバーベルを投げ捨て、と同時に、両手両膝を地面に着く形となった。

それは土下座のポーズの他なにものでもなかった。。。
 

僕はその場で動けなくなった。

周りの部員たちは

先輩

「サンチョス、何やってんだよ!w

早く立てよ!!www」
 

“大爆笑”をかましている。

小林勝宗 サンチョス ラグビー 早稲田

⇨ 相手のタックルを振りほどいて前進に試みる
 

一方の僕はと言えば、冷や汗タラタラである。

なんせ身体に力が入らないのである。

僕は土下座している両手を、スリスリと動かしながら外側に広げ、地面に突っ伏すことに成功した。

そしてホフク前進で出口を目指すことにした。

途中トレーナーが駆けつけてくれ、手を借りて立つことにチャレンジした。

トレーナーからは腹筋に猛烈に力を入れるように指示された。

歯を食いしばり、腕の力をフル活用してなんとか立つまでに至った。

そして松葉杖を用意され、まるでゴリラのように4足方向で医務室まで歩いて行った。

このゴリラ歩行の時にも、僕は冷や汗タラタラ、周りは大爆笑だったことは言うまでもない。

リハビリを経て戦線復帰。しかしまたしても再発。

激しくギックリ腰をした僕は、その後長期離脱をすることになった。

なぜかわからないが、ギックリ腰をしている最中にふくらはぎの肉離れも併発した。

そのため3年目の春シーズンを棒に振る形になってしまった。

小林勝宗 サンチョス ラグビー 早稲田

⇨ タックルされても、最後まで前進しようと試みる
 

夏前、春シーズン最後の関東学院の試合にはなんとか復帰を果たすことができた。

その後、1ヶ月に及ぶ夏合宿に突入した。

僕は離脱していた遅れを取り戻すために、いつもよりも意気込んで夏合宿入りをした。
 

だが運命は誰にだってわからない。
 

夏合宿初日のウエイトトレーニングの、腰をやってしまったクリーンをしている時、

前回とまさに同じ状況でギックリ腰を再発させてしまったのだった。
 

その後我慢してスクラムを組んでみたのだが、もう僕の腰は圧力に耐えることが出来なくなってしまった。

小林勝宗 カルロス サンチョス ラグビー 早稲田

⇨ ギックリ腰直後、痛みに顔を歪める
 

そして1ヶ月間の夏合宿を棒に振った。

夏合宿といえば1年で1番成長を期待できる大切な期間である。

早稲田は夏を経て強くなる、とファンの間でも言われるくらいである。

その夏合宿が、ただの高原での避暑生活になってしまったのだった。

避暑地としては、自然に囲まれた高地で涼しく、非常に快適な生活ができる。

無論そんな目的ではないので、僕の胸の内は曇るばかりだった。

突きつけられた現実。僕は何のためにラグビーをしてきたのか。

合宿では練習にも試合にも一回も参加できなかった。

さらに僕は、当時大変騒がれていた“新型インフルエンザ”にもしっかりかかってしまった。

夏合宿に行ったはずが筋肉は衰え、闘病生活のため日光にさらされることなく、肌はすっかり白くなった。

何をしに行ったのかわからない1ヶ月間となった。
 

そして合宿最終日、僕は監督室に呼ばれた。

監督室に呼ばれるということ、すなわち意味することは一つである。
 

「退寮」だ。
 

悔しかった。

寮は1軍を目指す、チームに必要な人間のみが居住を許される場所である。

ろくに実績も残さず、半年近くも戦線を離脱する人間がいる場所ではない。

命ぜられたのは当然だった。
 

僕は中竹さんから直接、退寮を命ぜられた。

励ましの言葉も添えられてあった。

だが、その事実を受け取るのに精一杯で、どんな言葉だったかを正直覚えていない。
 

監督部屋を去った時、まず両親の顔が浮かんだ。

入寮とは、1軍で活躍することを将来約束させられたようなものだ。

そんなめでたいことで実家を出る僕を、両親は勇ましく見送ってくれた。

僕にとっては人生で初めて実家を出る経験でもあった。
 

そんな両親のもとに、また戻ることになったのだ。

本当に悔しかったし、情けなかった。

なんでラグビーをしているかわからなくなった。

自分がなんのために生きているのだろうか。

すべてをラグビーに捧げているはずなのに、なんでこんなことになるのだろうか。

この時、本当にわからなくなってしまったのだった。

小林勝宗 サンチョス ラグビー 早稲田

⇨ 激しい練習にも歯を食いしばって取り組む

退寮者のジンクス。それは1軍に返り咲く運命にある。

夏合宿を終えた翌日にはいちはやく寮から荷物を持ち返り、1年半ぶりに実家暮らしに舞い戻った。

大学4年間の途中から入寮する者、4年間の途中で退寮する者はいる。

しかし、途中に入寮と退寮する者は前代未聞であった。

僕はある意味のパイオニアだったのかもしれない。
 

その後、実家からグラウンドに通う生活を再開し、なんとしても見返そうと努力を重ねた。

大学ラグビー部には、とある“ジンクス”がある。

それは「退寮をした者は、その後1軍に返り咲く」というものだった。

退寮の悔しさをバネに努力し、その後1軍で活躍するのである。

実際先輩で何人もそういう人を見た。

小林勝宗 サンチョス ラグビー 早稲田

⇨ 練習では何度も何度も反復練習を行った
 

4年生になり、中竹監督は任期を終え、チームを去った。

僕としては僕を入寮させ、そして退寮させた張本人の前で、何とか見返してやりたいという思いもあったが、それは叶わなくなった。
 

最終学年になると、今まで2軍にすらほとんどいなかった僕は、春先1軍のメンバーに名を連ねることになった。

春の韓国遠征などにも、1軍として行くことが出来たのだった。

小林勝宗 サンチョス ラグビー 早稲田

⇨ 1軍の選手のみが着ることを許されるアカクロを着て、秩父宮に立つ
 

アカクロを着て、秩父宮から見た景色

秩父宮に立ったのは、正確に言えば1軍ではない。

オール早慶明という、現役OB入り混じった試合だった。

僕はそれに現役として参加することが出来た。

OBには五郎丸さんを始め、太田尾さん、首藤さんなど歴代の最強選手たちが名を連ねた

テレビで見ていた方々と一緒にプレーすることが出来るなんて本当に幸せだった。
 

試合前、ローカールームで監督はジャージに塩を撒く。

試合に向けて清めているのだ。

その時、僕は涙が止まらなかった。

5軍から始まってやっとここまできた。

練習が辛かったし、試合で報われないことも多々あった。

でも今僕は1軍のみにしか着ること許されないジャージを手にする。

僕はボロボロと溢れる涙を止めることが出来ず、そのまま監督から受け取った。

感動とはこういう体験のことを言うのだろう。
 

僕はリザーブだったが、後半試合に出ることが出来た。

試合には完全に集中しているのだが、観客席の声がすぐ後ろで聞こえるようだった。

普段からラグビーを教えている子どもたちの声にも反応できるくらいだった。

五郎丸 矢富 田邊 小林勝宗

⇨ 五郎丸さん、矢富さん、田邊さんという豪華メンバーに紛れる
 

僕の名前が秩父宮の電光掲示板光ることなんて後にも先にもこの時だけだが、

僕は生きているうちの最高の体験の一つを、この時したのだと思う。

選手生命の危機。右膝前十字靭帯断裂。

その後、春先は1軍争いをしていたもの、夏合宿の頃には2軍・3軍を行き来することになった。

そして、夏合宿後には選手生命に関わるケガを負った。

膝の一番重要な靭帯を断裂してしまったのである。
 

前十字靭帯を断裂した時のことを記す。

よく前十字靭帯断裂というと「タックルされて受傷したの?」や「やっぱりラグビーって危ないんだね」とか言われたりする。

だが、僕の断裂の仕方は想像以上にダサい。

小林勝宗 サンチョス ラグビー 早稲田

⇨ 相手のタックルを振りほどいて前進しようとする
 

それは忘れもしない9月15日。

その頃は秋シーズンに向けて練習をしていた。

基本的に練習は徐々にコンタクト練習(ぶつかる練習)の強度を上げていく。

練習の中盤、タックルをする代わりにタッチをするということをよくする。
 

アタックのフォーメーション確認の練習中、ディフェンスはタッチで参加した。

僕はディフェンスをしていた。

スピードもトップではなくハーフくらい。

そのフェイズではスタンドオフ(司令塔のポジション)をマークすることになった。

スタンドがステップを踏んで、僕の内側を抜きにかかってきた。

僕もスタンドを止めるために、方向転換しよう右足に重心がかけた。
 

その時だった。
 
 

「バキッ!!」
 
 

今まで聞いたことのないけたたましい音が右膝で感じ、体内を通して聞こえた。

僕はその場に倒れこみ、右膝を抑えようとした。
 

その格好は周りから見ると
 

同期

「あれ、サンチョス、チ◯コ手で抑えてね?

打ったのかな??(笑)」
 

と映ったようだ。

僕の腕が短く、そして痛みに悶絶するあまり、足まで手が届いていたなかったのだろう。

部員たちも最初は笑っていた。

しかし、一向に立ち上がらない僕の様子を見て、ただならぬ状況だということに気付いた。
 

すぐさまトレーナーが駆けつけ、松葉杖を手渡され、医務室まで行った。

MRI(精密検査)をとらないと膝の状態がわからなかった。

トレーナーの判断では

「たぶん大丈夫だと思うんだけどなー」

と言うことだった。

そのまま練習を中断してMRIを撮りに行った。
 

翌日にチームのドクターに診察を予約し、それまで安静することにした。

翌朝目覚めると膝はパンパンに腫れ上がっていった。

ただ実験的に右足だけで立ってみたりしたところ、なにも問題ないということがわかった。

「あれ、もしかして、僕は必要以上に痛がりすぎちゃったかな、どうしよう・・・」

とまで思って病院に向かった。

これでなんともなかったら皆になんて言えばいいんだろう、と思いながら診察を受けた。
 

結果は、しっかりと右膝前十字靭帯が断裂していた。

後に手術の時にわかったのだが、この時半月板も同時に損傷していた。

前十字靭帯は手術をしないと再建しない靭帯で、手術をして復帰するまでに1年間は要する。

自分の感情がつかめず、突然涙がこぼれ始めた。
 

奇しくも9月15日、僕の誕生日は5月19日だ。

自分の誕生日の反対の日に運命の宣告を受けることになった。

それは22歳、すべてをラグビーに捧げてきた人間にはあまりにも悲惨な宣告だった。

なんで僕に、なんでこの時期にという考えが頭から離れなかった。

小林勝宗 サンチョス ラグビー 早稲田

⇨ 相手にぶち当たる前に、身体に力を込める

手術をせず現役続行。すべては大学選手権決勝のために。

大学ラグビー人生のラストイヤー。

言い換えれば、僕は社会人でラグビーを続けられるほどの実力があるわけではなかったので、もう僕のラグビー人生最後の時となる。

今手術をしたら、大学選手権決勝には間に合わない。

そのためだけに4年間を費やしてきたので、僕は決断した。

手術をせず、このまま現役を続行することを。

小林勝宗 サンチョス ラグビー 早稲田

⇨ 相手に掴まれてもひたすら足をかき続ける
 

靭帯がなくともテーピングをぐるぐる巻きにして膝を固定すれば、なんとかグランドに立つ事は可能である。

かつての先輩方もそうされてきて、僕は先輩方の最後にかける勇ましい姿を幾多も目の当たりにしてきた。

まさか自分がそうなるなど予想しなかったが、僕もそれをすることを決意する。
 

まず受傷後の腫れが治まるまで安静にした。

腫れが治まると、膝の状態を確かめながら、探り探りでトレーニングを始めた。

前十字靭帯は膝をつなぐ“ももの骨”と“すねの骨”がずれないようにストッパーの役割を果たす。

しかし靭帯が失われたのでストッパーがない。

走っていてストップするときや、急加速する際にももとすねの骨がずれてしまう“膝崩れ”という現象が起きてしまう。

これは激痛を伴うことになる。

それを防ぐために、膝の周りの筋力強化を図った。

小林勝宗 サンチョス ラグビー 早稲田

⇨ ペナルティ後、相手にボールを簡単に渡さない
 

筋力がついてくるとグラウンドに行って走り始めた。

膝に負担のかからない走り方をトレーナーにレクチャーして頂き、徐々に実践に近い形にしていった。

そして受傷から3ヶ月くらいたち、僕はグラウンドに復帰することになった。

不安はあったが、残りわずかなラグビー人生に全てをかけるために、僕は全力を注ぐことにした。

復帰後見えた希望。まだあきらめる訳にはいかない。

僕は3軍で復帰することになった。

普通ケガ人から復帰するときには、1番下の5軍から復帰することになる。

今までの実績を評価して頂き、3軍で復帰することになった。

そして復帰した翌々週には大学選手権決勝が控えていた。

1軍は順当に勝ち続け、準決勝まで駒を進めていたからだ。
 

復帰した週はシーズン真っ只中だったので対外試合があった。

僕は復帰明けだったので、(3軍の)後半から出場することになった。

練習中には1度膝崩れを起こし痛さに悶絶したが、なんとか試合までたどり着いた。

前半スクラムが安定せず、ちょっとよくない試合運びになっていた。

後半僕が出場し、スクラムが安定した。

相手ボールのスクラムも幾度もターンオーバーすることになった。

膝も問題なく、最後まで出場でき、試合では最高のパフォーマンスを発揮することが出来た。

小林勝宗 サンチョス ラグビー 早稲田

⇨ 突破後、相手に捕まらないコーズで走る
 

翌週2軍に名前を連ねることになった。

ここで活躍すれば、最後の大学選手権決勝のリザーブに入れるというところまで来ることが出来た。

大学ラグビー人生、最終週。ダンコたる決意と目の前にある現実。

大学選手権前の最終週。

僕の復帰から活躍する姿を見て、ある同期はこう言った。
 

同期

「サンチョス、シンデレラストーリーが出来てるね
 

確かに振り返ればそうなるかもしれない。

大怪我による戦線離脱 ⇨ 復帰した試合で大活躍 ⇨ 大学選手権決勝に出場。そして優勝。

僕にはそんなストーリーが描ける状況が目の前にあった。
 

大学選手権決勝のベンチ・メンバーが決まる、最終週の練習。

僕は2軍にいるので活躍すればリザーブ入りを果たせる。

なんとしてもという思いで気合が入っていた。

気持ちとは裏腹に、練習中に再度“膝崩れ”を起こし、1日だけ練習に参加出来なかった。

それでも週末に用意された対外試合には、後半から出場することが出来た。

「ここで活躍すれば大学選手権決勝のリザーブに入れる。」

僕はそれだけを脳裏に刻み、試合に臨んだ。

スラムダンクのゴリではないが、そんな心境だった。

ゴリ 海南戦

もうここで膝がどうなってもいい。

最後まで走らせてくれ。

そしてなんとか活躍させてくれ。

そんな“断固たる決意”というものも感じていた。

ダンコたる決意。
 
 
 

試合が終わった。

僕は自分のパフォーマンスを出すことが出来なかった。

スクラムを安定させることに精一杯で、それ以上に貢献することが出来なかった。
 

翌週の決勝のメンバーが発表された。

もちろんそこに僕の名前はなかった。

有田組、準優勝

決勝戦は帝京大学に負けた。

有田組は準優勝に終わった。

現在、帝京大学は複数連覇を達成しているが、その2度目の制覇が僕たちの代に当たる。
 

僕は試合を観客席で見守った。

試合中は声が枯れんばかりに仲間たちを鼓舞し続けた。
 

試合終了のホイッスルがなった時、何か爽やかな感触を得ていた。

「これで僕の現役ラグビー人生が終わったんだ」

やりきった感覚を覚えた。
 

有田組は最高のチームだったし、出場した選手たちは最高のパフォーマンスを発揮していた。

だから泣いてほしくなかった。

選手たちは僕たち控えに「本当に申し訳ない」と何度も頭を下げてきた。

そんなことはない、最高の試合だった。

だから顔を上げて欲しい。

僕ももうこれ以上涙は流したくない。
 

決勝の後、OBたちが優勝のための祝勝会を用意してくださっている、

僕らはそれに負けて参加することとなった。
 

何度も言うが同じチームとして、試合に出ていたメンバーは本当に誇りだった。

僕には何も悔いがない。

だからまだ負けて落ち込んでいる出場した仲間を見て、本当に苦しい思いだった。

最高の4年間だったじゃないか。

僕は勝ちだけが全てじゃないと思っている。

出場した選手たちに胸を張って欲しい思いでいっぱいだった。
 

祝賀会には前監督の中竹さんがいらっしゃていた。

僕のことなどそんなに印象にないのだろうと思っていたのだが、監督は僕を見るなり笑顔で歓迎してくれた。

「サンチョス!よくやってたな!!

俺はお前が春先1軍で活躍していたのが本当に誇らしかったんだ!」

そんな言葉を投げかけてくれた。

こんな僕のことを気にかけてくれているなんて想定していなかった。

「俺が入寮させ退寮させて責任を感じていた。

そんなサンチョスの活躍は自分のことのように嬉しかったんだ。」

僕は感動した。

感無量以外なにものでもなかった。

正直、渦中にいる時には中竹さんに僕のラグビー人生をめちゃくちゃにされた、

そんな被害意識さえも芽生えた時もあったくらいだ。
 

でも、僕はラグビーをやってきて本当に良かったと思った。

ポジション変更に活路を見出してくださり、入寮・退寮のことはあったものの、中竹さんはずっと僕にチャンスを与えてくださった。

そして去った後にも気にかけてくれていた。

僕はなんて幸せものなのかと、心から思った。

僕は最高の恩師との出会いに感動を覚え、最高の4年間を過ごせたと確信した。
 

奇跡の4年間をありがとうございました。

早稲田大学ラグビー部に僕はすべてを形成されました。

先輩、同期、後輩、スタッフ、すべてに心からの感謝を述べたいと思います。

この感謝は尽きることはないでしょう。
 

これにてに大学ラグビー編を終える。

更新継続中です

次は社会人編に入ります。

乞うご期待ッ!

関連書籍

中竹さんの現役の時の本はおすすめです。

大学4年、中竹さんが大学を去ってから初めて読みました。

中竹さんが居る頃に読んでたら見方が変わったかもしれませんね。

心から尊敬します。

サンチョス 早稲田ラグビー

ラガーマンにこの思いを伝えよう!


  もっと楽しく!

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ABOUTこの記事をかいた人

早稲田ラグビー出身ブロガー。大学時代のあだ名はサンチョス、現在はカルロス。ブログ「カルロス天才.com」を運営し、様々なイベントを立ち上げ、全国各地、たまに世界を放浪している。ラグビーに関することが仕事になればこの上なく幸せである。仕事の依頼はg.sanchoz@gmail.comまでお願いします。